蝉と蛍の話
良くないとは、分かっている。
けれど、人間、分かっていても止められないことがあるのも事実。
換気扇の下、一人納得したおれは、肺一杯に毒の煙を吸い込んだ。
じりじりと、白から赤、黒、灰に変わっていく煙草。
それはまるで、刻々と消費される時間のようだった。
タイムリミットまでは、実はそんなに長く残されていない。
流しに寄り掛かった視線の先、半開きのドアから、隣室が見える。
「おわり」はいつも視界の隅でチラついている。
少しだけ伸びた背中に、事実であると実感。
肺から吐き出され、換気扇に飲まれる紫煙が、微かに甘い香りを残して広い世界へと流れて行った。
「お前も、早く出て行けよ」
こんな場所に、いつまでも留まるな。
忠告は、微かに空気を震わせた。
このまま、空気に溶けるはずだったおれの理性に答える声。
「言われなくても。
だけどな、そう言うデリカシーの無い発言するから、あんたは女にもてないんだよ」
呟く程度の声は、隣室の背中に届いたようだった。
瞬時に返る、毒交じりの返答に苦笑する。
軽口、無駄口の応酬はいつものこと。
相手の非を冗談交じりで、または、半ば本気で攻め立てる。
これが、おれ達の日常だった。
混ざった些末な違いも見逃せないのが、日常。
おれが笑んでしまったとしても、誰も責めることは出来ないだろう。
表情を見咎め、返る声は険をはらんだ。
「さっさと出て行かせたいなら、こっちを見るな変態」
「言われなくても」
何でもないふりで、言葉遊びを続けるけれど、それが虚勢であることなんて、おれはとっくに気付いている。
窓に向き直り、貧弱な背中から視線を外す。
外は、とてもいい天気だ。
部屋の中では、服を着る衣擦れの音以外が聞こえない。
「なぁ、さっきショック受けただろ」
高いプライドに、少しの切り傷を。
ニヤニヤ笑いの混ざった言葉に、返答は無い。
代わりに、ぺたぺたと裸足の足音が近づいてくる。
「何を馬鹿なこと言ってんだ。
おれは見られて喜ぶ変態じゃないぜ」
疲れを見せない足取りを確認する。
さすがに若いだけあって、回復が早い。
「お前さんとは違ってな」
嘲弄の響きさえ帯びた声。
どうやら、上手くかわしたつもりらしい。
「じゃあな、ホタル族一歩手前」
ドアの閉まる音がした。
「…一応、気を使ってるんだがな」
おれは、また呟いてみた。
だが、今度の言葉は届かなかったようだ。
どんどんと足音が遠ざかって行く。
口が悪く、素直でない。
性根がねじ曲がっているんじゃないかとすら思うくらい、徹底的に。
それでも、おれは追ってしまうのだ。
防衛本能の塊みたいなガキを。
(おれにもお前にも、良くないことは分かってる)
おれは大人で、理性的でなければならない。
言い聞かせてはみたものの、足は勝手に動き出す。
サンダル代わりの、履き潰したスニーカーをつっかけて、ドアを出る。
見下ろした駐車場。
片隅に止められたバイクのエンジンは、まだ掛かっていなかった。
悪いことは分かっている。
それでも止められない悪癖、悪習。
まるで煙草みたいな奴だと思った。
(それとも、おれもまだまだ青いってことか?)
咥えたままの煙草はちらちらと燃えていく。
尾を引いた煙は、薄く紫色に色付いて。
紗幕の向こうに、目的の姿を見つける。
「おい、そこのチビ」
光を含んで、金にも見える髪に、声を掛けると、色素の薄い瞳が睨み上げて来た。
「何の用だよ」
ご機嫌斜めのお姫様は、少しだけ悲しげに見えた。
頬を撫で、髪を揺らす暖かな風。
煽られ、手の中の煙草が燃えていく。
ちかちかと瞬く炎は、夜空に灯ればホタルのようにも見えるのだろう。
「おれがホタルなら、お前は口の減らない蝉だな」
「…何が言いたいんだよ」
「鳴く蝉よりも、鳴かぬホタルがなんとやら、ってな」
見下ろした表情は瞬時に変わる。
「…馬鹿か、あんたは。
勝手に言ってろよ」
傍から見れば、嫌そうな顔でも、おれの口元は微笑んでしまった。
呼びかける二人称が、変わったことに、気付いたから。
それは、取り繕うのが上手いお前が、動揺した印。
吸いさしの煙草を咥えて、息を吸う。
肺が、煙に満ちた。
異常事態の話
夜半、目が覚めた。
暗がりで、おれは一人、額を伝う汗を拭う。
月は空に浮かんでいる。
けれど、この部屋の中には月明かりさえ入らない。
音も、気配も。
すべてを、窓を覆った雨戸とブラインドが遮ってしまうのだ。
まるで檻の中のようだ、と思った。
周囲に広がる大きな影。
机に本棚の大型家具。
ぼんやりと浮かび上がる真っ黒な影に、自分の部屋であることを認識する。
見回しても、見回しても、自分の部屋。
鼓動の音は、一つきりだった。
おれは、枕元の探る。
目的の物は、すぐに見つかった。
けれど、触れた瞬間、指先が怯む。
触れた携帯電話は、冷たい感触だった。
外界への連絡すら出来ない気がして、どこか深いところが冷える。
「…乙女かっつーの」
転がり出した自嘲は、闇に紛れてしまった。
夢を見た。
気分の悪くなるような、夢だった。
だから、誰かに縋りたくなった。
いや、縋りたいのは誰かではない。
脳裏には、一つの顔しか浮かばなかった。
鼻先が思い出すのは、苦い香り。
(違う!)
浮かんだ顔を打ち消すように、おれは重力に任せて、再びベッドに倒れ込む。
胸の奥が苦しくなる。
会いたくなる。
根底にあるのは、今までに無い感情。
思慕、希求、愛情。
そんな、綺麗なものじゃない。
湧きあがる想いに、何と名前を付け得るか。
傷跡の話
「何だ、この傷」
何気なく見たあんたの右腕に、傷跡を見つけた。
周囲の皮膚から浮き出すように、白く盛り上がっている。
縫われた傷が、癒えた痕。
真っ直ぐに腕を横断するそれ。
しっかりと眺めて、正体を突き止めよう。
そう思って伸ばした手を、さり気無い動作で避けられる。
逃げ出した腕を、おれの指先だけが追った。
しかし、捕らえることは出来ない。
腕の主は、数歩進んで、振り返る。
それが、おれ達の距離。
経験の差のようだった。
「銃創だよ。
昔、正義のヒーローだった頃、敵に撃たれたんだ。
上手く避けたつもりだったんだが、掠ってな」
面白くも無い、冗談と分かり切った冗談で、話は尻切れトンボになった。
それは、どうせいつものこと。
おれの話は聞き出そうとするクセに、自分のことは話さない。
「そんなわけあるか」
吐き捨てた声は、予想外に冷たく硬かった。
どくどくと、血が巡る。
駆け出して掴んだ腕を引き寄せたつもりが、よろけもしない。
結局、近づいたのは自分の方。
『銃創』が、ムカ付く。
『銃創』が、近づく。
丁寧に磨かれたショウウィンドウの硝子が光に反射している。
視界から、周囲の雑踏が消えかけた。
衝動が体を突き動かす。
唇を開く。
筋肉で硬く縒られた腕に、おれはそのまま歯を立てた。
口腔内に、味。
触れる感触に、雑踏が視界に戻って来る。
口を離して視線を上げれば、眼鏡の向こうで、大きく目が見開かれていた。
「呆気にとられた顔」の見本のようにな表情。
見開かれた目は丸い。
何かを言おうとして、失敗したあんたは、顔を逸らした。
髪から覗く耳が、微かに赤い。
おれの動揺は、急激に消えていく。
常には無く、しかも、おれ以上に取り乱したあんたの様子が、少し可笑しい。
いつまでも、振り回されているだけではない。
おれも、あんたを動揺させられる。
少しずつ、経験差と言う距離が縮んでいく快感。
自然と、唇の端が吊りあがる。
「これくらいで動揺すんなよ、おっさん」
その時の、あんたの面食らった顔といったら。
春も終わる頃の話
「なぁ」
肩越しの、声は無視。
回答済みの答案の上を、おれの握る赤ペンが滑って行く。
最後の問題は正答率が低い。
難しくしすぎたかと、少し後悔。
補習授業は、生徒だけでなく教師の休日も容赦なく奪っていく。
「なぁ」
今は、仕事。
期限は明日までの仕事なんだ。
自分に言い聞かせ、ペンを走らせる。
これも赤点。
どんどんと近づいて来る休日出勤の予感に、眉間を押さえた。
おれは、答案を作った当時のおれを恨む。
「なぁって」
「待て、これが終わってからだ」
声に答えて、紙をチェック済みの山へ。
次の答案を引きだす。
九割方埋まった回答欄に、少しだけ安堵した。
答案にペンを付いた途端、背中に衝撃。
一本の無駄な線が、答案用紙を横断した。
破れなかったことに安堵。
何事かと振り向くと、細い足が遠ざかって行く所だった。
脚の持ち主を睨み付ける。
視線を合わせると機嫌のいい猫がそうするように、色素の薄い瞳が細められた。
「やっと、こっち見た」
寝ころんだままだった上半身が起き出し、掛け布が滑り落ちる。
伸ばされた腕は、おれの頬をすいと撫で、耳を掠めていく。
眼鏡が奪い取られた。
「見えないから返せよ」
「ダテの癖に?」
からかう様に笑って、再び布団に転がる。
投げられる視線は、挑発的だった。
脅すように、奪った眼鏡の弦を噛む白い歯が見える。
脳裏をチラつくのは、記憶。
喉が鳴るのを止められない。
インクに赤く濡れたペン先をしまえば、浮かぶ、どこか満足そうな笑み。
感じるのは尚早。
けれど、その一挙一動に煽られる焦燥。
頭の中がぐらり、揺れる。
年下に思うまま振り回されるとは、年上としての矜持が痛まないことも無い。
…ので、悪態を吐く。
「…後悔するなよ」
結果的には、何も変わらないけれど。
「…なんて話があってもイイと思わないかね、透馬君」
「アホか!却下だ、却下」
明奈オチ。